塩と共に140年の歩み(1)

江戸時代、加賀藩による塩の統制

加賀藩三代藩主前田利常の時代に現在の専売制度に類にした「塩手米制度」をしき廃藩に至るまでこの制度を持続した。
この制度の目的は、徴税よりも貧民救済、戦乱の備え、西国十州塩の確保が容易でない北陸において塩の自給自足をはかるという軍事対策と思われる。
利常は能登の海水は塩分が強く製塩に適しており、付近に山林が多く燃料が豊富であるのを見て塩田の設置を奨励し生計に苦しむ細民を製塩事業に従わせ、貸すに米をもってし、返すに塩をもってする「塩手米制度」を創始した。

加賀藩により製塩を統制(塩手米制度)され、塩の販売についても「塩問屋」にその販売権を独占させ、金沢・小松・高岡・富山・魚津等主要な市街地は「塩売」として需要者の求めに応じて自由に販売させた。
寛文2年(1662)からは「塩問屋」を指定して藩で収納した塩を販売させ、他の販売を禁じた。
これによって藩の専売についての機構も確立した。
「塩問屋」の数は年代によって不同であるが、金沢10人、高岡・小松が5人、能登口郡6人、同奥郡4人、富山7~8人と認められ、その他の町にも1~2名程設置され、およそ40人前後が指定されたと推察される。
その後、寛政4年(1792)以降は新規許可を廃止、権利の譲渡を認めた。

塩と共に140年の歩み
塩と共に140年の歩み
塩と共に140年の歩み
塩と共に140年の歩み
嘉永3年(1850年) 浜岡弥次兵衛 黒部の生地から魚津に出て能登から物資を運ぶ海運業の商売を始める
嘉永6年(1853年)6月3日 アメリカからペリー提督が4隻の黒船を率いて浦賀沖に到着する
嘉永7年(1854年)3月3日 日米和親条約締結
文久元年(1861年) 北中治郎 加賀藩金沢で味噌、醤油を製造、販売する
文久2年(1862年)10月 皇女和宮と第14代将軍徳川家茂の婚礼
江戸末期 浜谷平三郎 高岡伏木で廻船問屋を営む 肥料、塩の販売

幕末の混乱と明治政府による専売制の始まり

明治維新後、加賀藩における塩の保護専売制で保護されていた能登塩は大量生産による原価安の西国十州塩との自由競争にまき込まれた。
西国十州塩は北回り帆船によって日本海側に進出、加賀・越中の港に大量に陸揚げされた。
明治4年廃籍奉還により加賀藩の塩の製塩、販売の保護専売制は完全になくなった。

塩専売制度の施行前は廻船問屋によって西国十州塩が買付され、北陸地方に売渡された。
廻船問屋から仕入れた塩を販売する塩問屋が新たに創業した。

明治初期 開発久三郎 射水郡浅井島村から富山に出て米殻、塩を販売
明治12年(1879年)10月 開発久三郎 新川郡富山小島町に土地を購入する
米穀、塩問屋として本格的な営業を開始する(屋号は開久商店)
新川郡富山、婦負郡、上新川郡、飛騨高山へ米穀、塩などを販売する
明治38年(1905年)6月1日 塩専売法が施行 大蔵省専売局

明治37年、日露交戦をみるに至るや、軍資調達の必要を直接の目的として政府は、塩専売を施行して財源とすることに決定し、「塩専売法」が明治38年1月1日公布、同6月1日より実施した。
塩専売制度が実現をみるに至った遠因の一つには徳川幕府の崩壊により、従来各藩において実施していた塩制が廃絶され、塩業の保護育成が崩壊し、維新後自由放任に委ねられ国内塩業は混乱の極に達していて、塩民は困窮し、なんらかの強力な統制を必要としつつあったこともあげられる。

塩の需要供給を調整しかつ塩価を低廉に保つために、明治41年4月塩専売法及び同施行規則を改正し、塩販売制度を改め、塩元売捌人及び塩小売人を指定し、各塩販売官署の販売区域を定め、各塩販売官署はその区域内の塩元売捌人に売渡し、塩元売捌人は他の塩元売捌人または塩小売人に販売することとした。即ち、指定制度の創設である。
これと同時に政府は、その販売価格を取締りまたは制限し、かつ必要と認める場合には消費者に対して直売ができるようにした。
明治40年以後、全国各地に塩の販売倉庫を設置した。
北陸3県では明治41年6月に専売局金沢収納所所属として伏木、敦賀に蔵置所が設けられた。

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