戦時下における塩の安定供給のために
第一次世界大戦が勃発すると、我が国の経済は海外市場の急速な拡大による貿易量の増大に伴い飛躍的な発展を遂げた。その中心をなしていた重工業の発展は塩需要の増大を促し供給不足の様相を呈してきた。
一方、大戦の影響により物価労賃の上昇は著しく、これが、塩生産費にも影響をあたえたため賠償価格を引き上げざるを得ず、専売益金は大幅に減少することとなった。
塩専売法施行の主たる目的であった「財政収入確保」という点では、次第にその意味を失っていった。そこで、政府は国内塩業を保護育成することを目的とした「公益専売」の立場をとることを明確にし、塩専売制度を存続させた。
大正3年(1914年) | 開発久三郎 元売捌人指定 | |
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大正8年(1919年) | 富山塩元売捌合名会社を設立 本店は富山市小島町とする 富山塩元売捌合名会社が塩元売捌人の指定を受ける 代表社員 開発 久三郎 |
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大正11年(1922年) | 浜岡弥次兵衛 元売捌人指定 | |
大正中期 | 高岡塩元売捌株式会社 元売捌人指定 代表取締役社長 北中治郎 |
塩専売制施行以来、専売局→塩元売捌人→塩小売人というチャンネルで塩を販売してきたがまだまだ零細な塩元売捌人が多かった。
そこで、塩元売捌人の指定期間の交替・更新期にはつとめて整理統合を行い、不良な業者を廃止する方針をとり、特に大正11年において多数の合併整理を行ったため、塩元売捌人は全国的には約四分の一に減少した。
金沢地方専売局管内では、大正4年度76人(全部個人)、大正12年度20人(官外1人除く、うち法人15)営業所45となった。さらに昭和に入ると昭和10年度7人(官外1除く、うち法人5)営業所23となり、
昭和13年には4人(全部法人)営業所19となった。その後戦争の拡大に伴い、塩の供給は逼迫し、昭和17年1月に塩の配給制が実施される。
塩元売捌人についても一層の整理統合が望まれた。
この整理統合は塩割当配給制度運用を円滑に期するために、地方庁との連絡を密にする必要もあるので、塩元売捌人は1道府県内に1人とすることとなった。
昭和4年(1929年) | 富山県氷見郡氷見町の樋口恒次郎より氷見町の塩元売捌業を廃業するにあたり氷見塩元売捌合名会社営業権を開発 久三郎が購入する | |
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昭和初期 | 金岡甚三 砺波で塩を販売する | |
昭和13年(1938年)7月1日 | 富山県東部の塩元売捌人 下新川郡(泊・入善)塩元売捌人 下新川郡(黒部・魚津・滑川・水橋)塩元売捌人 (濱岡 弥次兵衛) 富山(婦負郡・上新川郡・飛騨高山)塩元売捌人 (開発 久雄) 以上の富山県東部を営業エリアとして富山塩業合名会社を設立 塩元売人以外では 蓮沼 善之助 が出資する 代表社員 蓮沼善之助 本店 富山市新桜町66番地 富山県西部の塩元売捌人 砺波 塩元売捌人(金岡 甚三) 高岡 塩元売捌人(濱谷 平三郎・北中 治郎) 氷見、新湊 塩元売捌人(開発 久雄・袴 信一郎) 以上の富山県西部を営業エリアとして中越塩業株式会社を設立 取締役社長 濱谷平三郎 本店 射水郡伏木湊町6番地 |
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昭和17年(194年)11月1日 | 富山塩業合名会社と中越塩業株式会社が合併 会社名 富山塩業株式会社 資本金 116,000円 本店 富山市新桜町66番地 貯蔵所 魚津、滑川、泊、伏木、新湊、高岡、氷見、出町、石動、城端 代表取締役社長 濱岡弥次兵衛 |
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昭和20年(1945年)8月1日 | 富山大空襲 | |
富山塩業株式会社社屋が被災する | ||
昭和20年(1945年)8月15日 | 第二次世界大戦 戦争終結の詔勅発布 玉音放送 | |
富山市呉羽村小竹にて倉庫を間借りして営業する | ||
昭和21年(1946年)5月27日 | 佐藤工業株式会社安養坊出張所と倉庫、事務所新築工事の建築請負契約を締結し工事を開始する 建築地 富山市新桜町66番地 |